地獄の沙汰も金次第、とはよく言ったものです。私たちのあらゆる行動、そして考えには、常に「お金」のことがついて回ります。「経済」とは、共通した価値を通じてのコミュニケーションのようなものです。

私たちは働いてお金をもらい、それを使って生活しています。社会が発達した現在では、私たちはある意味で「特化」した存在です。農家でなければ作物の栽培や収穫はできないものですし、漁師でなければ魚を採ることはできないのです。ですが私たちは「食べる」必要がありますから、それら誰かが育てたもの、採ったものをお金で「買う」のです。

ですが、それもただ買うというわけにはいきません。家の近くに農家や漁村があればいいのですが、それらが遠い場合、誰かに住まいの近くに運んで来てもらう必要があるのです。その「運ぶ」ということは「仕事」になります。そして運んできたものを「売るための場所」も必要になるのです。

そのようにして「仕事」は次々と生まれました。私たちが自らの暮らしを快適にするために、「社会」をつくりだすために、それぞれの人がそれぞれの役割をまっとうできる社会が作り上げられていったのです。その社会の中に共通して存在したのが「価値」です。「勤労」に対しては相応の「価値」がなければ誰も「働かない」ということになります。自分の努力が「実らないのだ」ということになってしまうと、誰もが働くことをやめてしまうでしょう。

私たちの歴史は、「働く」ということ共にあります。さまざまな先人の「働き」が、今日の世の中を作ったといってもいいのです。そして私たちもまた、働くことで社会をつくり、働くことで明日、さらには「未来」を作っているのです。勤労で得た「対価」で生活をしながら、です。

「資本主義」とは、誰かの勤労や事物などを「お金で買うことができる」という仕組みです。お金は人々の間で共通の「価値」を持ち、その価値の分だけのお金と、勤労、或いは事物を交換するのです。それは「売り買い」ということです。商売の基本、そして資本主義が資本主義でいられるための基本原則です。その「お金」を通じた生産活動、消費活動こそが、人が発展してきた歴史の中核でもあります。

資本主義のなかでは、「お金を沢山持っていれば沢山の価値を有している」ということになります。世の中に「お金なんていらない」人というのは、ホンネではいないのではないでしょうか。それほどまでに今の世の中「お金」に支配されています。

そんな「お金」を得るためには、「努力」が必要だと考えるのがまっとうですが、私たちが一日の中で、そしてその積み重ねの「一生」の中で使える「時間」は限られています。限られた時間の中で、どれだけのお金を稼ぐかという「勝負」なのです。

人よりも少し金儲けをしたいと考えるのであれば、ただ我武者羅に働くだけではいけません。人と同じだけの時間しか使えないのですから、その限られた時間の中でいかに効率的に稼ぐかということを考えなければいけないのです。金儲けの本質は「機転」てず。少し頭をひねることで、人がやっていないこと、考えもつかないことを見つけるのです。漠然としていますが、毎日汗水流すだけでは、いつまでも「人並み」からは脱することはできません。

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